『天皇の国史』⑧鎌倉時代

はじめに

日本史

本記事はカテゴリー "Intelligence" の記事です。

intelligence の意味は基本的には「知能」や「知性」を意味します。一方、安全保障・軍事の世界においての意味は敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味を持ちます。

"Intelligence" の前半の意味である「知性」を養うことが最初の一歩です。まずは自分の国の歴史を知り、日本がどんな国で、日本人とは何なのかを理解するところから始めたいと思います。

『天皇の国史(竹田恒泰)』

日本史を学ぶ上で教科書として選んだのがこの本です。

私は竹田恒泰さんの書いた『天皇の国史』を読み、日本の歴史が好きになりました。この本は、「日本人に生まれて本当に良かった〜!」と思わせてくれる1冊です。

ということで、日本の歴史について、『天皇の国史』を教科書として、今さらながら勉強し直しています。下記に過去記事のリンクを掲載しておきます。

今回は第8回ということで、「鎌倉時代」です。

鎌倉時代

壇ノ浦の戦いの後、後白河上皇の院政が続いていました。後白河上皇は源頼朝が征夷大将軍になることを拒絶していました。

後白河上皇は平清盛に幽閉されている経験を持っていますから、武士というものを信用していなかったのかもしれませんね。

しかし、1192年に後白河上皇が崩御となると、第82代後鳥羽天皇は源頼朝を征夷大将軍に任命しました。ここに正式に鎌倉幕府が成立しました。

1333年に鎌倉幕府が滅亡するまでの約140年間を鎌倉時代と言います。

承久じょうきゅうの変

後鳥羽上皇は鎌倉幕府を政治的に統制下に置きたいと考え、源実朝に取り入っていたのですが、源実朝は暗殺されてしまいました。

そして、朝廷と幕府は衝突することとなります。後鳥羽上皇は執権北条義時の討伐を命ずる院宣を発しました。

1221年(承久3年)に起きた承久の変です。

結果、北条泰時が率いた幕府軍の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐おきに島流しにされてしまいました。

この後、幕府は朝廷を監視するために六波羅探題ろくはらたんだいを置き、上皇に味方した公家や武士から土地を取り上げ、幕府の支配は日本の西側にまで及ぶこととなりました。

君の御輿みこしに弓は引けぬ

歴史を学ぶ上で、必ず覚えておかなければならないことがいくつかあると思います。

増鏡ますかがみ』では承久の変の中、北条泰時が鎌倉に戻り、父である北条義時と交わした問答が記されています。

その内容は当時の皇室がどのような存在であったのかを読み取れる内容です。私はこの本『天皇の国史(竹田恒泰)』を読むまで知りませんでしたが、日本人として、知っておきべき事の一つだと思います。

北条泰時の「上皇自らが兵を率いて現れた場合にはどうすべきか」という問いに北条義時はこう答えます。

よくそれを尋ねた。上皇の御輿には弓は引けぬ。その時は直ちに兜を脱ぎ、弓の弦を切って、降伏した後に上皇に身を任せよ。しかし、もし上皇は都においでになり、軍平だけを差し遣わすのなら、その時は、命を捨てて千人が一人になるまで戦うべし ※引用元『天皇の国史(竹田恒泰)』P322

敵将が自ら兵を率いて現れたら、無条件に降伏せよというのは、世界史の常識では理解されないでしょう。しかし、日本では天皇と上皇に弓を引くことは、いかなる名分も立つ余地がないのです。

皇室の底力

承久の変で、北条氏は天皇を処刑し、皇室を廃し、新たな王朝を立てることもできたはずです。しかし、そうはしませんでした。

北条氏は二人の上皇を配流にし、後鳥羽上皇の兄宮を上皇とし、その息子を皇位に就け、朝廷の経済基盤も保証しました。

このように日本の歴史において、天皇を利用する者は現れても、天皇に取って代わる者は現れませんでした。それが、今にも続く日本の皇室です。

御恩と奉公

源頼朝は朝廷から下賜かしされた東国の広大な土地を活用して、御恩と奉公という強い主従関係を御家人と結んでいました。

御恩とは、将軍が御家人に領地を保証し、新たな所領や一定の権利を与えること、奉公とは、平時には幕府の警備を務め、戦時には命を賭けて戦うことです。

このような土地の権利を基礎として、御恩と奉公の主従関係で成り立つ制度を封建制度といいます。

元寇げんこう(蒙古襲来)

13世紀はモンゴル帝国の時代でした。当時、アジアから東ヨーロッパにわたる地域を統一した世界史上最大の帝国は、ついに日本に襲い掛かってきました。

これは日本の歴史上未曽有みぞうの事態であり、国家の危機でした。もし、ここで日本が負けていれば、今の世界地図に日本国は無かったかもしれません。

文永文永えき

1274年(文永11年)、高麗こうらい軍を含む元軍23,000が九州北部に進行してきました。

長崎県の対馬つしま壱岐いきはの島民は皆殺しにされていました。戦争で民間人にも手を出すのが大陸文化です。

博多湾から九州に上陸した元軍を迎え撃ったのは、5,000の鎌倉幕府軍でした。

私が子供の頃、学校の授業で記憶したところによると、神風が吹いて元軍は退散した。と教わっていたように記憶しています。

しかし、史実は異なります。この文永の役においては、陸上で日本軍が元軍を撃退しました。その後、海上の元軍を暴風雨が襲ったため、元軍は退散したのでした。

弘安こうあんえき

その後、元は日本に2回にわたり使節団を送ってくるのですが、北条時宗はこれを処刑してしまいます。

1281年(弘安4年)に元は14万の兵を率いて、日本を再び襲いました。対する日本は12万の鎌倉幕府軍が迎え撃ちました。これが弘安の役です。

鎌倉幕府は博多湾岸に20kmに及ぶ石築地いしついじを築くなどして迎撃態勢を整えていました。また、小型船での奇襲攻撃などを繰り返し、元軍の上陸を阻止しました。

幕府の作成が奏功し約2か月間もの間、元軍は海上に留め置かれてしまいます。そして、運命の7月30日の夜を迎えます。

台風が襲来し、元軍は甚大な損害を受け、撤退しました。

もし、日本が負けていたら

私は学校で本当に教えなければいけないことは、この先にあると思っています。

「もし、この文永・弘安の役で日本が負けていたらどうなっていたか?」ということを考えることです。

当たり前ですが、そこで負けていれば今の日本国は存在せず、支那の一部となっていました。

鎌倉時代の武士たちは、力を合わせてこの国難に対して果敢に戦いました。そして、朝廷と幕府も力を合わせて、元による日本征服をよく阻止してくれました。

ラッキーで勝ったのではなく、日本人が力を合わせて外敵と戦った結果、勝利したのです。

天候が味方してくれたのは、亀山上皇の身命を賭した祈りが届いたからかもしれません。

「わが御代みよにしも斯かる乱れ出で来て、まことにこの日のもとの損なはるべくは、御命おんいのちを召すべき」(私が治める御代にこのような戦乱がおきて、本当にこの日本が滅びるようなことがあったら、私の命を召し上げてください)(『増鏡』老いの波-弘安の祈願、抄録)

鎌倉幕府の終焉と南北朝時代の始まり

幕府は弘安の役の後も、更なる侵攻計画に備えて警備を続けなければならず、かつ防衛戦争で勝利したとしても、得るものはありません。

御家人の負担は重くなるばかりで困窮していました。各地で出没する悪党と呼ばれる集団への取り締まりも十分に果たされず、鎌倉幕府は衰退していきました。

後醍醐天皇(第96代、1288年~1339年)

後醍醐天皇は歴代天皇の中でも、ものすごいドラマを持っている天皇だと思います。

鎌倉幕府が弱ってきたタイミングで討幕を計画しますが、それが事前に漏れ伝わって、捕まり隠岐に流され、その際に幕府から廃帝はいたいとされてしまいます。

しかし、後醍醐天皇は諦めません。"釣り船" で隠岐から脱出して船上山せんじょうさん(鳥取県琴浦町)に拠点を構えます。

鎌倉幕府の滅亡

1333年、足利尊氏あしかがたかうじが六波羅探題を攻め落とし、関東では新田義貞にったよしさだが鎌倉を陥落させました。

ここに約140年間続いた鎌倉幕府は滅亡しました。

復活した後醍醐天皇

京都に戻った後醍醐天皇は光厳こうげん天皇の即位を無効にしました。

足利尊氏は武家政治の再興を狙っていましたので、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じました。

南北朝時代

一方の尊氏は、光厳上皇の院宣いんぜんを携えて九州で大軍を組織し、京都へ向かい、湊川みなとがわの戦で新田義貞と楠木正成くすのきまさしげの軍を破り、京都を制圧しました。

尊氏は光厳上皇の弟にあたる北朝第2代光明天皇を践祚せんそさせました。後醍醐天皇はこれに抵抗していましたが、尊氏の和睦に応じて、三種の神器を引き渡しました。

がだしかし、後醍醐天皇はそれを偽物でした、と宣言して京都から出て、吉野に南朝を開きました。

これから60年に及ぶ南北分裂の時代を南北朝時代と呼びます。