『天皇の国史』②縄文時代
はじめに
日本史
本記事はカテゴリー "Intelligence" の記事です。
intelligence の意味は基本的には「知能」や「知性」を意味します。一方、安全保障・軍事の世界においての意味は敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味を持ちます。
"Intelligence" の前半の意味である「知性」を養うことが最初の一歩です。まずは自分の国の歴史を知り、日本がどんな国で、日本人とは何なのかを理解するところから始めたいと思います。
『天皇の国史(竹田恒泰)』
日本史を学ぶ上で教科書として選んだのがこの本です。
私は竹田恒泰さんの書いた『天皇の国史』を読み、日本の歴史が好きになりました。この本は、「日本人に生まれて本当に良かった〜!」と思わせてくれる1冊です。
ということで、日本の歴史について、『天皇の国史』を教科書として、今さらながら勉強し直しています。下記に過去記事のリンクを掲載しておきます。
『天皇の国史』①岩宿時代以前今回は第2回ということで、「縄文時代」です。
年代と地形で見る縄文時代
年代表
縄文時代は約16,300年前に始まりました。縄文時代は最初に縄文土器が出土してから、水田稲作が始まる弥生時代までの期間を指します。
以下の図は、『天皇の国史』を読みながら私が独自に書いたものです。
地球の気温変化
下記の図は、南極の気温推定値を示しています。これによると地球は、10万年おきに氷河期と間氷期を繰り返してきています。
このグラフのスケールでは、ちょっと分かりづらいですが、縄文時代の始まりである約16,300年頃は氷河期の時代でした。
氷河期の日本列島は中国大陸と繋がっていた
氷河期の時代は、下記の図にある東シナ海の大陸棚は歩いて渡ることができました。それが温暖化により、約6,000年前には現在の日本列島と同じ地形になっています。
つまり、縄文時代は氷河期から温暖期へと地球規模で気候が大きく変わり、日本列島の地形は支那大陸から分離されました。
また、海面上昇により海が内陸に入り込むことで日本列島の至る所で、多くの入江が形成されました。これを縄文海進と言います。縄文人の生活も大きく変化したと思われます。
日本列島は世界有数の豊かな土地
世界の常識では、そこに海があるからといって魚が取れるわけではありません。ハワイやグアム、アメリカ西海岸などは魚が棲む場所が少なく、ほとんど漁業は行われていません。
魚が棲むためには条件があります。
魚が棲むためにはいくつもの条件が整わなくてはいけない。海に豊かな栄養分が流れ込み、植物性プランクトンや動物性プランクトンが豊富に存在し、尚且つ魚が棲みやすい環境でなくてはならないのである。具体的には、深海の養分が共有される海流が近くにあること、魚が産卵できる入江があること、入江に川が流れ込んでいること、そしてその川の上流に森林があることなどが条件となる。川は森と海を結ぶ養分の動脈として機能する。そして、日本列島はその条件を完全に満たしている。 ※引用元:P78
これを読むと、日本に生まれて本当に良かったな〜と思います。日本には海の幸、山の幸が同時に味わうことができる世界有数の豊かな土地です。
日本文明の成立
何をもって文明の成立とするか
何を持って文明とするか、私は考えを持っていませんでした。何となく「文字」を使い始めるところからかな?と漠然とイメージしていた程度です。
世界の考古学会における文明成立の定義は、農耕による余剰作物の生産を前提とするため、その定義では、日本文明の成立は、弥生時代を待たなければならないだろう。また文明の定義は多義的で、都市化や文字、あるいは「国家」といえる政治システムの確率を前提とする見解もある。どの定義を採用するかによって、日本はいつから文明があるかの答えが大きく変わる。 ※引用元:P84
日本は支那文明の亜流だといわれてきたが、本当にそうだろうか。縄文時代に日本列島に文明はなかったのだろうか。実は、縄文時代の遺跡から当時から独特の生活様式があることが分かっており、日本人の土台は縄文人にあったと言っても過言ではないのです。
私は日本の歴史の良いところを見ようと勤めています。『天皇の国史』で学ぶ以上、竹田氏の言うように、私は敢えて良い方の解釈を取りたいと思っています。日本人が日本人の歴史を語るときに、主人公補正が掛かってしまうのはとても自然なことだと思うのです。
もちろん、一歩下がった視点で考えなければいけないこともあると思いますので、その辺は気をつけたいと思います。
縄文人の生活
縄文土器の名称は、米国人の動物学者エドワード・S・モースが明治十年(1877年)に大森貝塚(東京都)で発見した土器に縄の模様が付いていたことに由来します。貝塚とは食べ残しやごみなどを捨てた遺跡を意味します。
縄文人は、石器、弓矢、骨角器などを使って狩猟、漁労、採取により食料を確保していた。骨角器とは、動物の骨格から作られた道具で、鹿、猪、イルカなどの骨から作った釣り針や銛などが、縄文時代の遺跡から発見されている。
土器が使われるようになると、煮る、蒸す、炊くといった調理法が加わって、汁ものの調理も可能になり、木の実などの灰汁抜きもできるようになって、効率良く栄養を採取できるようになった。また、土器で飲食物を貯蔵することが可能になり、酒を醸した形跡も確認されている。
縄文人たちは地面に掘った穴に柱を立てて、草で屋根を葺いた竪穴式住居に住み、集落を作って定住するようになった。また、丸太を刳り貫いた丸木船を使って、航海していたことも分かっている。
そして、縄文時代のお墓には副葬品がないことから、人々の間に貧富の差はなかったと考えられています。また、縄文時代には戦争の跡がほとんど見られないそうです。
これまでに約6,000体の縄文人骨が確認されていますが、戦傷の痕跡が見られるのは僅かに20体ほどだそうです。戦闘が皆無ではなかったが、その規模は極めて小さかったと考えられます。
日本の縄文時代は1万年以上もの間、貧富の差もなく、戦争もなく、穏やかな時代を築いていたのです。日本の大昔は良い時代だったのですね〜。
土偶は何に使っていたのか?
土偶は、沖縄を除く日本列島全域に分布し、これまでに15,000個以上が出土していますが、その用途は分かっていないのだそうです。
土偶が何らかの祭祀に用いられていたとすると、縄文人は目に見えないものに畏敬の念を抱き、自然を畏れ利用してきたのだと思われる、先祖に感謝し大自然との調和を重んじる日本人の価値観は縄文人が起源だったのかもしれない。 ※引用元:P85
用途が分かっていないなら、そういう想像(ロマン)があっても良いなと思いました。
山内丸山遺跡(青森県)
山内丸山遺跡は、約5,900年前〜約4,300年前、およそ1,600年間営まれた広さ約35万ヘクタールに及ぶ縄文時代中期の巨大遺跡です。居住の跡は全体で3,000棟以上になると推定されています。遠方との交易も盛んだったようで、糸魚川のヒスイ、岩手の琥珀、秋田のアスファルトなどが出土しています。
また、遺跡には大規模な墓地が造営され、故人を丁重に葬る文化があったことを思わせます。集団の結束と人々の平等性を重視した社会だったのです。
日本文明の成立
縄文人は採取経済を基盤とする社会としては、稀に見る平和で高度な安定した社会を構築していたことが明らかになってきました。日本列島の豊かさが人の心の豊かさを育み、大自然との調和を重んじる独特の世界観を作り上げたと見られます。
このように、縄文時代において日本人の価値観の土台が作られていったと考えられます。
日本の神話
『古事記』に描かれる神話の時代と、現実の歴史はどこかでリンクしています。伊邪那岐神の子孫は初代天皇の神武天皇です。
『古事記』の最初は、天つ神を中心に物語が展開してきましたが、須佐之男命が高天原を追放されて地上世界に降りたち、続いて、須佐之男命の子孫である大国主神が国作りをする話に入っていきます。
国作りと国譲り(国作り)
ざっくり書きますと、須佐之男命は出雲国に着いて八岐大蛇を倒した神です。大蛇の尻尾を切った時に現れた立派な剣は、後に天照大御神に献上される "草薙剣" であり、三種の神器の一つです。尻尾からレア素材が出てくるなんて、日本の神話はモンハンみたいな話ですね。
その後、須佐之男命の6代目の子孫にあたる大国主神は八上比売と結婚したが、それを兄である八十神に怒られました。我が子の身を案じた母神は大国主神を根之堅洲国に逃亡させました。
根之堅洲国を統治していたのは須佐之男命で、その娘の須勢理比売と大国主神は結婚しました。だが、須佐之男命は大国主神に多くの試練を与えました。大国主神と須勢理比売はその試練に耐え、須佐之男命が寝ている隙に逃げ出します。須佐之男命は逃げていく2人に祝福の言葉を掛けました。
こうして根之堅洲国から帰った大国主神は葦原中国を完成させ、ここに国作りを終えました。今の地上世界は、大国主神が須佐之男命の試練を頑張って乗り越えて作られたのですね。その大国主神は現在の出雲大社に祀られています。
国作りと国譲り(国譲り)
大国主神が国を作ったのですが、それを統治するのは天孫でなければならないと、高天原の天つ神は考えました。
この話をまとめたのが建御雷神です。建御雷神は大国主神に問います。
「我々は、天照大御神と高御産巣日神の命によって、次のことを問うために遣わされた。汝がうしはける(領有する)葦原中国は、我が御子の知らす(統治する)国である、と任命なさった。汝の考えはいかがなるものか」 ※引用元:P70
それに対して大国主神は、宗教の自由を国譲りの条件とします。
「天つ神御子が天津日継(皇位)をお受けになる、光り輝く宮殿のように、地盤に届くほどに宮柱を深く掘り立て、高天原に届くほどに千木を高く立てた壮大な宮殿に私が住み、祭られることをお許しください」 ※引用元:P71
日本は天皇の「知らす」国である
この建御雷神の交渉内容は、葦原中国は天孫の「知らす」(統治する)国であることを認めるなら、大国主神が「うしはく」(領有する)ことを認めるということでした。そして、大国主神からつけた条件が、宗教の自由を認めてもらうことだったのです。
「知らす」と「うしはける」の違いは、現在の日本にも見ることができます。日本は天皇の「知らす」国であり、天皇の任命を受けて内閣総理大臣が「うしはく」国であるということです。
天孫降臨
天照大御神の孫(邇邇芸命)が地上に降りたことを「天孫降臨」と言います。このとき、天照大御神は邇邇芸命に三種の神器を授けました。
また、天照大御神は邇邇芸命の出立に際して、とても重要な神勅を授けます。
天孫降臨に当たり天照大御神と高御産巣日神が邇邇芸命に下した神勅「此の豊葦原原水穂国は、汝が知らさむ国ぞと言依し賜ふ。故、命の隨に天降るべし」(この豊葦原瑞穂国は、あなたが知らす国であると命ずる。よって命令の通りに天降りなさい)(『古事記』天孫降臨の神勅)
天孫降臨に当たり天照大御神が邇邇芸命に下した神勅「葦原先五百秋穂瑞穂国」は、是、吾が子孫の玉たるべき地なり。邇皇孫就きて治らせ。行矣。室祚の隆えまさむこと、天壌と無窮けむ」(葦原先五百秋穂瑞穂国(葦原中国)は、我が子孫が君主たるべき地である。皇孫であるあなたが行って治めなさい。さあ、お行きなさい。皇室が栄えることは、天地と共に永遠であろう)(『日本書記』天壌無窮の神勅)
※引用元:P73
邇邇芸命が天照大御神から授かった神勅は、「葦原中国はあなたが知らす国です。よって命令の通り天降りなさい。」という命令と、「皇室は永遠に続くでしょう。」という祝いの言葉だったのです。
「知る」ことこそ日本における統治の本質
お知りになさい
「知らす」という言葉は、大陸から漢字が入ってくる前からあった大和言葉であり、そこに日本独自の国家統治の在り方が刻まれています。
天照大御神は邇邇芸命に葦原中国に降り、国を「お知りになさい」と命ぜられた。天皇にとって国の事情を広く知ることは、天照大御神からの命令である。つまり、天皇が国を治めることは、天皇が国の事情を知ることと同義であり、「知る」ことこそ、日本における統治の本質なのである。「支配しなさい」と「お知りになさい」では全く性質が異なる。 ※引用元:P75
なぜ「知る」ことが国を治めることに繋がるのか。
一言で答えるならば、「知る」と祈りたくなるからです。その仕組みを図にしてみました。
一般人でも、例えば災害が起きて報道で被災地の様子を知ると、とても他人事ではいられなくなるものであり、それが人情である。歴代天皇は、国と民を知ることに尽くし、自らの意志により、国の安泰と国民一人一人の幸せを祈り続けてきたのである。
天皇が国民のことを我が子のように愛しその幸せを祈り、国民は自分たちのことを大切に思ってくださる天皇を本当の親のように慕い、皆で力を合わせて国を支えてきた。それが我が国の国柄である。
天皇の統治とは、天皇自ら政策を立案するのでもなければ、号令を掛けて臣下を奮い立たせることでもない。それは、天皇が国民を知ることに努めその幸せを祈ることにより、自ずと日本国民を統合し国を束ねることだった。
※引用元:P76
日本は天皇が知らす国
歴代天皇は国民に対して強い関心を持ち、国民のことを知る努力を重ねてきました。現在の上皇陛下や天皇陛下が、日本全国をご訪問になり、地域の状況を熱心にお知りになろうとするお姿は、まさに「知らす」天皇のお姿そのものです。
「天皇は祈る存在」といわれます。歴代天皇はほとんど例外なく、国民の幸せを祈り続けたが『古事記』にも『日本書紀』にも、「国民の幸せを祈りなさい」という趣旨の神勅はない。天皇の祈りは、神勅に基づくものではなく、各歴代天皇の自発的な行いだったのです。
そして、このような天皇の統治は、2,000年以上続き、現在に至ります。日本の国柄を一言で表現するなら「日本は天皇が知らす国」といえます。それが日本の国体なのです。
終わりに
以上が、縄文時代のまとめは終わりです。子供の頃は縄文時代は、比較的すぐ終わってしまい、あまり記憶に残っていない時代でした。
しかし、自分が何者なのか、その答えは縄文時代にあるのではないでしょうか。ちゃんと勉強しておけばよかったな〜と、しみじみと感じております。
次回は弥生時代に進みます。