日本と中国の関係史 中編(1912年~1945年)

日本と中国の関係史

対中戦略を考える上で、日中の関係が歴史的にどうだったかは、抑えておくべきでしょう。

参考にしたのは、こちらの本『嘘だらけの日中近現代史(倉山満)』です。

中国と日本の関係史、概略(1912年~1945年)

この頃の歴史は世界と繋がっています。

1911年、辛亥革命が起きます。

1912年、孫文が中華民国を建国し、自ら大統領に就任します。しかし、軍事力は袁世凱が握っています。

1913年、孫文は袁世凱に対して第二革命を起こします。

1913年末、アメリカでウッドローウィルソンが大統領に就任します。

1914年、第一次世界大戦 ※別記事にて解説

1917年、ロシアでウラジミール・レーニンが共産主義革命を果たします。

1919年、ウラジミール・レーニンは国際共産党(コミンテルン)を結成します。日本を謀略により転覆させようと対中工作に力を入れます。

1921年、孫文は広東に政府を樹立します。最大のスポンサーはレーニンです。また、レーニンは一方で陳独秀ちんどくしゅうに中国共産党(コミンテルン中国支部)を結成させます。

1922年、ワシントン条約(艦艇の保有比率は、英:米:日=5:5:3)、大日本帝国は世界の大国です。

1924年、第一次国共合作、ソ連は陳独秀に命じて孫文率いる中国国民党に中国共産党員を加入させます。

1931年、満州事変 ※別記事にて解説

1933年、ドイツではアドルフ・ヒトラーが、アメリカではフランクリン・ルーズベルトが権力を握り、大日本帝国は国連を脱退します。ここから、第二次世界大戦までまっしぐらです。

1936年、二二六事件を契機に日本は準戦時体制へと移行します。

1937年、泥沼の支那事変(8年間)が始まります。

1945年、最強の陸海軍を持ちながら、大日本帝国は滅んでしまいました。

1945年、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党は内戦に突入しました。

第一次世界大戦(1914年~1918年)

第一次世界大戦

満州事変(1931年)

満州事変から国連脱退まで

「対華二十一か条」は火事場泥棒?

1915年、日本は中国に対して「十四か条の要求」と「七か条の希望」を突き付けただけですが、袁世凱のプロパガンダにより「対華二十一か条」とされました。

「対華二十一か条」の通説

通説はこうです。

日本はヨーロッパの国々が干渉できない隙をついて、火事場泥棒のように中国に「対華二十一か条」を押し付けた。最後通牒を突きつけられた袁世凱は泣く泣く、そのうちの十六か条を受け入れた。

「二十一か条要求」はプロパガンダ

「二十一か条要求」という言い方は、中華民国・袁世凱えんせいがい政権のプロパガンダです。

日本は「十四か条の要求」と「七か条の希望」を突き付けただけです。

「七か条の希望」

当時の中国は動乱状態でした。

中国政府がまともに機能しておらず、現地日本人居留民の安全が保証されていない状態でした。

だから、「七か条の希望」で「必要な地域に日中合同警察を設けること」などの内容が並んでいます。

ただ、これは外交上の駆け引きで合って、日本としてはあわよくば、くらいに思っていました。

「十四か条の要求」

日本が「十四か条の要求」で求めたのは以下のようなことです。

  • 第一次世界大戦で敵国のドイツを駆逐して獲得した権益の承認
  • 日露戦争で獲得した権益の承認
  • 外国を不用意に介入させないこと

今でたとえるなら「中国に進出している日本企業の権利と安全を保障せよ」くらいの内容です。

これらはつまり、中華民国に対して「国際法を守れ」と言っているに過ぎません。

加藤高明外相の大失態

「十四か条の要求」と「七か条の希望」は最後通牒さいごつうちょうの形で付き付けられました。

実はこの「最後通牒」というのが袁世凱の仕掛けだったのです。

袁世凱は「国内世論を納得させるため、最後通牒なので泣く泣く受け入れたという格好にして欲しい。」と外務省に頼み込んできました。

加藤高明外相はその通りにしました。

そして、袁世凱は世界中に向けて「日本が火事場泥棒的に脅してきた」とプロパガンダしたのです。

袁世凱にしてやられました。本当に情けない。

支那事変(1937年~1945年)

中国人にとって、対外関係は政治の道具、いついかなる時も国内の権力闘争が優先されます。

外国に迷惑をかけても、人民をひどい目に合わせても、権力闘争に勝てればよいのです。

そして、当時、蒋介石の狙いは中国共産党の掃討でした。

きっかけ

1937年の盧溝橋事件と通州事件です。

盧溝橋事件の真相は今も分かりません。盧溝橋で夜間の軍事演習中の日本軍が銃撃されました。

確実に言えるのは、日本陸軍に全く戦う意思がなかったということです。

参謀本部第一部長に石原莞爾がいましたが、「満州に専念」「ソ連を警戒」で、国民党政府との戦いには絶対反対でした。

そこに近衛文麿首相が「世論がこんなに怒っているのに、なぜ参謀本部は戦おうとしないのか!」と圧力をかけます。

通州事件とは、大山勇夫海軍中将が上海で虐殺されるという事件です。

身内の死体を凌辱される殺され方をして、海軍は激昂し、海軍陸戦隊を上海に向けて進撃させました。

陸軍もつられて進撃します。

こうして何の作戦計画もなく怒りに任せて「支那事変」に突入します。

戦争ではなく事変である

宣戦布告の有無は重要です。

宣戦布告があって戦争がなされるのであって、なければ事変です。

宣戦布告によって戦争状態にあることを宣言すれば、味方・敵・中立国の区別が出来ます。

軍事的支援、経済的支援を行ったら国際法で敵国認定されます。

近代戦と現代戦の違い

近代戦は敵の指導者と和平を結べば終わりです。

だから、敵の首都を攻略してはならない場面が多いです。

現代戦は、敵の首都を攻略してからが本番です。

政治指導者を失っても徹底抗戦しかねません。

支那事変の実態は治安維持

日本軍は強くあっという間に占領してしまいました。上海や南京など、7大都市を攻略しました。

しかしながら、中国大陸における日本軍の戦いは終わりません。

日本軍は8年間も何と戦ったのでしょうか。

ゲリラか、テロリストか、誰に雇われているのかも分からない連中を相手に治安戦をしていたのです。

日本軍は占領した都市の治安維持に腐心していました。

本気で侵略するなら、真面目に目的をもって侵略して欲しいと思います。

大東亜戦争(1941年~1945年)の勝者と敗者

日本陸軍の主力は対米開戦中も、満州と中国大陸に張り付いたままです。

ソ連を警戒しつつ、中国大陸の治安維持を行いながら、アメリカと戦っていました。

蔣介石も長い戦いで疲弊していきました。

戦ったのは誰か

大東亜戦争で激突したのは、日本と米国です。

支那事変で戦ったのは、蒋介石と日本軍です。

戦わなかったのは誰か

ソ連と中国共産党です。

ソ連のスパイが潜り込んでいた

日本の近衛文麿とアメリカのフランクリン・ルーズベルトの両方の取り巻きにはソ連のスパイが大量に潜り込んでいたことが明らかになっています。

中国共産党は、もともとコミンテルンの中国支部です。

勝者と敗者

支那事変での勝者はありません。

支那事変における当事者であった日本軍と蒋介石は、どちらも敗者となりました。

1945年、第二次世界大戦では連合国が勝利しました。

国連安保理の常任理事国は連合国の米国、ソ連、英国、仏国、中国です。

1949年、毛沢東率いる中国共産党が蒋介石率いる国民党を破り台湾に追い出しました。

第二次世界大戦における、本当の勝者はソ連と中国共産党です。

続く

日本と中国の関係史 後編(1945年~現在)