『天皇の国史』③弥生時代
はじめに
日本史
本記事はカテゴリー "Intelligence" の記事です。
intelligence の意味は基本的には「知能」や「知性」を意味します。一方、安全保障・軍事の世界においての意味は敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味を持ちます。
"Intelligence" の前半の意味である「知性」を養うことが最初の一歩です。まずは自分の国の歴史を知り、日本がどんな国で、日本人とは何なのかを理解するところから始めたいと思います。
『天皇の国史(竹田恒泰)』
日本史を学ぶ上で教科書として選んだのがこの本です。
私は竹田恒泰さんの書いた『天皇の国史』を読み、日本の歴史が好きになりました。この本は、「日本人に生まれて本当に良かった〜!」と思わせてくれる1冊です。
ということで、日本の歴史について、『天皇の国史』を教科書として、今さらながら勉強し直しています。下記に過去記事のリンクを掲載しておきます。
今回は第3回ということで、「弥生時代」です。
弥生時代
弥生時代は、本格的な水田稲作が始まってから、前方後円墳が出現する3世紀初頭までの期間を指します。
縄文時代は戦争のない平和な時代でした。そして、縄文時代から弥生時代への移行においても、西日本の少数を除くと、縄文人の戦傷例がほとんどないことから、大規模な戦闘はなかったことが分かっています。
水田稲作の始まり
2003年に国立歴史民族博物館が、福岡市の雀居遺跡などの土器に付着した炭化物を "放射性炭素年代測定法" で分析した結果、日本における本格的な水田稲作の開始は約3,000年前であることが分かりました。
水田稲作の伝えられた経路
上記の発見に伴い、水田稲作の始まった時期が朝鮮半島(約2,600年前)より日本列島(約3,000年前)の方が早いと言う結論になりました。そのため、水田稲作の伝えられた経路は朝鮮半島経由であるという従来の説は否定されました。
長江下流域から直接(長江下流域→九州)伝来したと考えられます。その理由は、稲の遺伝子分析から判明しました。朝鮮半島にない稲の遺伝子が日本列島で見つかっているのです。
日本人の起源
学校の歴史の授業では「弥生時代に入ると文化が進んでいた朝鮮半島から渡来系弥生人が日本へ侵入してきて水田稲作・金属器が伝えられた」と教わっています。
いわゆる二重構造仮説というものが主流となっています。
しかし、最新の学説により、その考え方は否定されてきています。
水田稲作は日本列島の方が早く、他方で、農耕や金属器については日本列島より朝鮮半島が先行していました。また、当時の朝鮮半島に住んでいたのは縄文人であることが分かっています。
地域によって朝鮮半島民族との混血度合いは異なりますが、みな弥生人であり、もともとは縄文人です。
日本列島にはもともと縄文人がいました。そして、徐々に大陸や半島からの人々を受け入れていきながら、現代の日本人へ繋がっています。
畑作農耕と水田農耕
この二つの違いについては、しっかり理解しておきたいと思います。
農業的な特徴
水田稲作の利点は、無肥料で連作可能、且つ単位当たりの収穫が大きいということです。
畑作農耕では、常に追肥が必要で、連作障害が発生するため、手間が掛かる上に活用できない土地ができてしまいます。
我々の祖先である縄文人は賢いですね。よくぞ、水田稲作を選択的に取り入れてくれたと思います。
奴隷が作られる
畑作農耕は奴隷を作りました。
水田農耕と比べると畑作農耕は単位当たりの収穫が極端に少なく、その少ない収穫を得るために大きな労働力を投入しなければならなかった。畑作農耕は労働集約型の農耕で、奴隷と家畜を前提としなければ成り立たなかった。
※引用元:P115
国の成り立ち
貧富の差が生まれ、力のある勢力が現れ、周辺地域を圧倒していき、そして国になります。
畑作農耕の文化では貧富の差が大きくなる傾向があり、富の偏りが顕著になって、力のある勢力は周辺地域を力で併合するようになる。そしてそれは、階級社会や国を生み出すことに繋がる。支那と朝鮮が、覇権を求めて国の興亡を繰り返す歴史を歩んだのは、黄河文明の畑作農耕を基礎としたことが無関係ではない。朝鮮半島では日本列島よりも先に墓が大型化して、王の存在が認められるようになるが、これも畑作農耕により生じたことと考えられる。
※引用元:P115
まとめ
以上の内容を簡単な表にまとめてみました。
文明 | 農耕スタイル | 単位毎収穫量 | 特徴 |
---|---|---|---|
黄河文明 | 畑作農耕 | 少ない | 土地と奴隷を必要とするため、争いは増えるが、勢力争いの結果として国もできていく。 |
長江文明 | 水田稲作 | 多い | 争いが少ないため、大きな勢力ができず、国ができるのが遅い。 |
八絋為宇
この時代を指すであろう『古事記』『日本書紀』の内容を見ていきましょう。
天皇の寿命
これは、『古事記』の天孫降臨以降のお話になります。
地上に降り立った邇邇芸命は大山津見神(山の神)の娘である木花之佐久夜比売に求婚しました。佐久夜比売は自ら申し上げることはできないということで、父である大山津見神に結婚の許しを請いに行きました。すると、大山津見神は大喜びで、姉の石長比売を添えて、多くの嫁入り道具を持たせて送り出しました。ところが、姉の石長比売は見るものが震えるほどの醜さでした。邇邇芸命はその余りの酷さに、嫁入りの日に姉の石長比売を実家に送り返してしまいます。
※引用元:P103 一部省略あり
すると、父親の大山津見神はこのように述べます。
「私が二人の娘を並べて送り出したのは、石長比売を側に置いて頂ければ、天つ神の御子の命は、常に石のように変わらず永遠でありますように、また、木花之佐久夜比売を側に置いて頂ければ、木の花が咲くように栄えますようにと、願いを懸けて送り出したからです。石長比売を送り返し、佐久夜比売一人を留めたのですから、今後、天つ神の御子は、桜の花のように脆く儚いものになるでしょう。」
※引用元:P103
この事件により邇邇芸命とその子孫である歴代天皇には寿命が与えられました。これが、天皇の祖先が神から人になった瞬間です。
神武天皇の東征
弥生時代の後半(二世紀後半)は大変な戦乱の時代であったそうです。そんな中で「平和に天下を治める」ことを目指した神々がいました。
『古事記』は、神倭伊波礼毘古命が天皇にご即位になる経緯を次のように記す。ある時、伊波礼毘古命は兄の五瀬命に「何処に座さば、平けく天の下の政を聞こし看さむ。猶東に行かむと思ふ」(一体どこに住めば、平和に天下を治めることができるのでしょうか。東に行ってみませんか)と申し上げ、二柱は東に向けて出立なさった。この東征の旅は「平和に天下を治める」ための御決心だったことを確認しておきたい。
※引用元:P148
こうして、色々あった末に、天つ神の御子は長い東征を終え、畝火の橿原宮(奈良県畝傍山東南の地)にて、初代の天皇に御即位されました。
神倭伊波礼毘古命は後に「神武天皇」と呼ばれるようになります。
八絋為宇
神武天皇の御即位前に発せられた「神武天皇建国の詔」が『日本書紀』に収録されています。その中でも、最も注目すべきは以下の部分です。
「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇と為さむこと、亦可からずや」(四方の国々を統合して都を開き、天下を覆って家とすることは、はなはだ良いことではないか)(『日本書紀』神武天皇建国の詔、妙録)
※引用元:P152
これは、建国の精神の核となる部分で「八紘を掩いて宇と為さむ」を取って、八絋為宇と表現されることがあります。
意味は「私たち日本人は皆家族であり、日本列島は私たち日本人の家である」というものです。これが我が国の建国の精神であり、その精神性は「大御心」として歴代天皇によって継承され続けています。
攻め滅ぼすのではなく身内にする
以下の図表は、天つ神御子の婚姻関係図です。伊波礼毘古命(神武天皇)は天照大御神、山の神、海の神の子孫であり、大物主神の義理の息子となりました。
このようにして、天つ神御子が葦原中国を「知らす」者としての正当な系統が整えられました。天照大御神だけではなく、葦原中国で強い霊力を持つ神々の血筋となることで、初めて「国を知らす者」としての正当かつ説得力のある存在になったのです。
武力ではなく、身内に取り込んでしまうことで、天皇はその正当性を持つことになったのです。「私たち日本人は皆家族であり、日本列島は私たち日本人の家である」とは、本当にそのままの意味だったのです。各地の力のある勢力を身内に取り込んでいくことで、天つ神御子はその地位を確かなものにしていったのです。
やまいこくの卑弥呼そもそも魏志倭人伝では、邪馬台国ではなく、邪馬壹国です。
その邪馬壹国とヤマト王権の関係、邪馬壹国が九州の地方政権であったのか、九州から畿内に移動してヤマト王権になったのか、などについては現在も結論が出ていません。
理由は文献が残っていないため、文献史学でも考古学でも、それ以上は分からないのです。
そのため、史実が明らかになるまで、邪馬壹国や卑弥呼については深入りしないことが賢明と思われます。
終わりに
小学校や中学校で習った歴史観は本当に正しかったのか、疑問に思わざるをえません。邪馬台国の卑弥呼という女王がいたことは、はっきりと覚えていますが、それは支那の魏志倭人伝に書かれていたことです。
それよりも『日本書紀』に書かれている建国の精神である「八絋為宇」の方がよっぽど日本人にとって重要なことではないのでしょうか。
次は古墳時代について見ていこうと思います。